昭和41年09月09日 朝の御理解



 とかく、信心は地を肥やせ。地を肥やさなければ良いものは出来ぬ。地を肥やしておけば、ひとりでにものができるようなものじゃ。お互い、こうして信心の稽古をさして頂いておるんですけれども、この神様は、一足でもここへ、こちらの方へ足を向けて来りゃ、一足でも無駄にはせんと仰るぐらいでございますから、それが地肥やしのもとになっておることは間違いない。
 まあ、たとえて言うならば、「草が生えとる所には、まあ、草を取ろう」と。「荒れておる所は耕しておこう」と。といったような、その、まあ始めから、あの荒地といったようなところに、いくら肥やしを蒔いておっても、ま、だめですもんね。やっぱりあの、開墾しなければならなかったり、または草を取っとかなければ、また耕しておかなければ。その上、私は、根肥やしをやる。地を肥やしておかなければならない。
 それで、これはあの、椛目のご信者さんがたに限らないのですけれども、やはり長年、または何十年信心の稽古をしておられる方達が、さっさとそういう意味での努力はなさっておられるけれども、いよいよなら種を蒔かせて頂こうという為の、地ならしとか地肥やしとかという、その決定的なもの。ね。無駄にはなっとらん。草を取ったり、開墾したり、ね、いわゆる耕したりしてるんです、ね。
 ですから、その間に、やはりあの、おかげも、お取次ぎを頂いてお願いをしておかげを頂くんですけれども。そういうその、まあ願いをしておかげを頂くというのでなくてから、「ひとりでに物ができるような」という、おかげでなからなければいけないと、いうことです。どうぞこのへんに白菜を一本下さい。このへんに一つ、ニンジンをひとつ下さい、というてまあニンジンの、それは、まあいうならば、人参なら人参、なら大根なら大根を、まあ神様からもろうてくるようなものであってから、ね。
 そこにひとりでに、種。ニンジンが欲しいならニンジンの種を、大根が欲しいなら大根の種を蒔かして頂けば、ひとりでに、ひとりでにこうできてくる。ね。私は、ここんところがこの御教えの、まあみそじゃないだろうかと思うんですね。ひとりでに頂けれるというところなんです。「ひとりでに物ができるようなおかげ」皆さん、ここんところを頂く。みなさん、お参りをなさってから、お願いをなさってからおかげを頂いておられる。まあそういうおかげも頂き頂きいいでしょう。
 けれども、はたしてその、ひとりでにできるといったような精進をしておるだろうか。昨日の朝から頂きますように、「徳を積む」といったような、まあ特別ないつもかつもできんと、ね。ほんとにお徳を受けたというならば、今こそ、まあたとえていうならば、椛目の場合、あのご造営なら御造営が始まってこのかた。あのご造営中に、自分は徳を受けたというなら徳を受けたんじゃなかろうか、力を受けたというなら力を受けたんではなかろうか、というような。
 「さあ、このことによって一徳受けるぞ」といったような信心を、まあ、昨日朝の御理解に頂きましたですね。今日は、私はそういうような、特別なことだけ特別なというのじゃないです。ね。もう常日頃、ならみなさんは、まあ確かにその、だんだんこの荒れた地を耕されたり、草を取られたり、ね、そういう働きだけはなさっておられるということは、この神様はあの、一足でも無駄にはさせんとおっしゃるのですから。そういうようなことに私は、あのおかげ頂いておるのだと、こう思うんですよ。
 ところがどんなにその、例えば、そういうことができておりましてもですね、地を肥やしておかなければということ。耕しただけじゃいかん。草を取っただけじゃいかんて。それを肥やしておけばとこういう、そこんところを今日は、どういうような信心になったら根を肥やすことができるだろうか。地を肥やすことができるだろうかと。いや、ひとりでに物ができるようになるだろうか。これはやはりいっぺんではでけん。ね。
 そこで私どもが、そのこれはもう、いよいよ間違いなく肥やしになる、といったような肥やしの材料というものはです、耕しおる、草を取っておるというところに、その肥やしを入れとかなければならんということ。ね、それがいつも頂いておるように、「心を豊かにさして頂こう」と。ところが自分の心がはばからん、ね。自分の心、まあやっぱ、たとえていうならば、もう腹の立つようなことが起こってくるてい。ね。腹を立ててから、立てたんじゃ肥やしを向こうに押し返したようなもの。
 ですから、そこんところを合掌して「はあ、今こそ根肥やしを頂きよるんだ」と。「今こそ、せんふりを頂きよる時だ」と。苦い思いをするけれども、せんふりを頂きよる時だ、自分の心が肥えていきよる時だ。自分の心の胃腸が丈夫になっていきよる時だというような頂き方こそ、まあ肥やすということになるわけなんですけれども。はたして、そうやって受けていきよるが、そういう肥やしがあの、確かに地が肥えていきよるのが自分で分かるようなです。
 あのおかげを頂いていかなければ、そのことの楽しみもなからなければ。「はあこういう調子でいきゃ、ひとりでに物が出来る様なおかげになるぞ」と言う様な見通しもつかんでしょうが。ただ「グゥグゥ」いうち堪えておりますと、言う様なことじゃ堪えちゃならん。肥やしたかと思うたら、もうあらしよると言った様なことじゃいかん。私、昨日、これはまあ、私一番始めに、初対面の時にそれを感じたんですけれども。
 あのご造営の所の石庭を久富組の、久富組じゃない、久富建設、正義さんの家内の兄さんが受け持って、「自分がこのおかげ頂こう」と言うてして下さっておる。ちょうど昨日、まいりましたら、だいたい終わってしもてから、もうみんなで一生懸命あの大きな石を洗っておるところでした。もう洗い上げておるところでした。キレイにできています。あれにコケ、こう石の周囲にコケをこう置いて、そして、周囲に全部、白砂を入れられるというのですから、見事になるだろうとこう思います。
 石がもう一つひとつその、たわしでキレイに洗われておるんです。そのもう濡れております石、と言う様な意味ですか、その時ちょうど行き合わせましたもんですから。まあそれでなるほどあの、お昼はいつもこちらからお弁当持って行くんですけれども、夕食でも差し上げたいと思うけれど、もう絶対食べられるられる方じゃない、まだある時はあちらにいつも行って頂くんですけど、ここへ寄って頂いた事がないんです。
 丁度私が参りましてから、まあ是非というてから、寄ってもらった。まあお夜食、夕食でもあげたいわけで御座いますけれども、さんに私一番始めにあのお会いした時に感じた事なんですね。その後もまあちょいちょいは会いましたが、会うたんびんにそれを思うんですけれども、一つも私は久留米の小川組の息子と言った様な、ふうな顔をしておられないことですね。なるほど成功する人は違うと私は思いました。
 それはあちらの、いわゆる正義さんの家内のお父さん達夫婦、お爺さんとお婆さんなんかにもそれが言えます。「ほう、この人が小川組っちの親分」「この人が小川組を作りあげられたじいさんか」という、もうどこのお百姓のお爺さんだろうかというふうにしとられますですね。もうキザな所がひとつもない。ほうやっぱりあの、ある意味合いでですね、財産でも成すという人は違う。
 私は今日言うのはです、その小川さんから感じた私は感じなんです。まあ、それこそ自分がああして時間を割いてから、忙しい中からまあ勿論好きでもおありになるらしいですけれどもです。もうしてあげております、と言った様なものが全然ない事です。もう本当にあの、昨日でも非常に恐縮されるんですもんね。せっかく石庭を造られるならば、向こうが白壁になさって。
 そして向こうの方に、もうひとつこう板を入れられるとか、またはあの、さっしのガラスのところをこう、格子になさるとかすると、石庭がはれると思うけれども、言うて流されたらしいんです。それで、委員長がすぐその事をまあ、大工にさせとるわけなんです。そしたら、もう私が一言言うたらもう、こんなに綺麗にして頂いて、私はその庭造りが上手ではないとに、その為にわざわざこういう場を作ってもろうてから、もう恐縮しとります、と言うて昨日言われるわけです。ね。
 信心さして頂きよってです、私が今日申します「ひとりでに物ができるような」と。ひとりでに、例えばお金が集まってくる。もうこれはまあ、信心がないからまあ、お金ならお金が集まってるから幸せとは言われんですけれども、そういうお金ならお金が、物なら物が、人なら人が集まってくるようなですね。やはり、ものというのは、ははあ、こういうところだなと私は思う。
 いうなら、低いところへ低いところへと金が集まってくる。人が集まってくる。物が集まってくる。ね。私は、久留米の小川組だと。というようなもの全然感じさせない。そして、向こうの知ってるからけれども、にんぷさんと同じように、一生懸命泥だらけになって働いておられるということ。私どもは、信心の稽古をさして頂いて、確かに、今は耕しもありゃ、そのいろいろなための、一足でも無駄にはさせんと仰る意味合いにおいてですたい、そういうようなことができていきよるけれども。
 なら、いよいよの、その「肥やしておけば」というその、地が肥えていきよるかどうかということをです、私は、ひとつ自分の信心に確かめを入れてみなければいけないとこう思う。はたして地が肥えていきよるかどうか。もう地が肥えれば肥えるほど、ね。中身が出来れば出来るほど、「ほんとに相済まん私」と言う様な私であるか、姿勢であるかということなんです。
 そして、自分の心の中に、自問自答してみるがいい。おれがやらなければ、私がしとる。と言う様にですそれこそ「実れば実るほどかがむ稲穂かな」と言う様にです、その地が肥えていきよれば肥えていきよるほどです、私はそう言う様なふうというものが、自分の心の中に、出来ていきよらなければです。いわばひとりでに出来る様なおかげというのは、まだまだ程遠いということを、私は思わなければいけんと思うです。
 というてなら、今日から早速いっちょ、ほんならこう、そういうふうをしようと言うて出来るもんじゃないです。本当に私は、根肥やしになるものを、本当にそれを本気で取り組んで、それを自分の心の中に、願わさして、受けさして頂くところの、私は稽古ができてこそです、ひとりでに物が出来る様なおかげが頂けれるんだと思うのです。ところが、今申しますようにね。やはりその、信心はなくても、何ちゅうんですかね、地が肥えておるという、やっぱ人がありますよ。
 そこに私はめぐりを感じます。または「屑の子ほど可愛い」と仰る「私どもは、ほんとに屑の子だな」神様が手をかけて下さったんですから、やっぱり浅い。荒れた私どもであるということを感じます。ですから、そこんところの自覚に立って、本気で私どもはですね、そういう、いわば人づくりというか、人柄を目指して、自分の内容を豊かに高めていかなければならん。ね。そして、教祖の神様がおっしゃるように、ね。
 なるほど、日々のおかげじゃない。日々のこうやっておかげをこうむっていくということだけではなく、ひとりでに物ができていくようなおかげ。ね。これではひとりでに物ができるようなことにはならん、と気付いたらです、そこんところに本気で取り組んでです、ね。そこんところを私は、に肥料を施していくところの、耕していくところのおかげを本気で頂かなければ、いつまでたっても「ひとりでに物ができる」といったようなおかげになってこないと私は思う。
 とかくに信心は地を肥やせと。地を肥やしておけばひとりで物が出来る様なものである。もう私どもは、ここは十分頂いて、そのことだけでは分かっておるんですけれども。ひとりでに物ができるとはどう言う様なことだろうか。信心さえしとればそれでいいだろうか。決してそうじゃない。何十年信心しておっても、「無駄にはさせん」と仰るからおかげは頂けておる。ね。いうなら、開墾はしよる。草は取りよる。ね。
 けれども、もうここには何を植えても良いと言う様なです、自分の心の中の、いわば地は肥えていきよる、豊かになっていきよるというところに、目をそらしておったんではいつまでたっても同じこと。ね。「とかくに信心は地を肥やせ」と。地を肥やすということは、ただ今申しましたようなこと。「ひとりでに物ができる」言う様なことは、ただ今私が申しましたようなことだと私は思うんです。
 どうぞ皆さん、ひとりでに物が出来る様な、と言う様なおかげを受けた時に、これは神様が喜んで下さる、おかげというのじゃなかろうか「どうぞ大根を下さい。ニンジンを下さい」と言うて頂くおかげはです、私は神様が喜んで下さるおかげではないと思う。ひとりでにものが出来る様なおかげを頂いて始めて、私は神様は喜んで下さる。私も喜べれる。もう自他共に、皆んなが喜べれる。誰でもが成程合点がいくなぁ。( ? )の、例えば、小川組の(今をとっては?)誰もなるほど親分らしいとか、立派だとかと、いま申しました財産とか、その何かでみんなが頭を下げるでしょう。ね。
 けれども、財産やそういうものに頭を下げたんじゃつまらん。ね。それこそ、その人自身が地を低うしていかれる。ね。それで下から、みなさんももっともなっちゅうごたるで下からこうやって押し上げていくような感じ。ね。せっかく信心をさせて頂くのでございますから、まずはそういうところに焦点を置いて、いよいよ地を肥やしていくところの信心と、ね、耕していくというところの信心と、ね、が、あいまってひとつおかげを頂いていかなければいけないということですね。
   どうぞ。