昭和41年04月04日 朝の御理解



 御取り次ぎの働きとそれを教学の面から申しますと、教学の事については良く解りませんのですけれども、この御結界という所にはそのまま教祖生神金光大神のお取り次ぎの働きというのがあっておるのである。ですから御取り次ぎを願う者が、そこに教祖の神様がおわしますと教祖の神様の御取次をそこで頂けるんだという風に確信さして貰うて本当に御結界を拝まして貰い、御結界に座っておる人その人を教祖の神様その人だと頂ける様に成ったらおかげが頂けれると、確かにそれどころでは無いと思います。
 そこにほんとに、金光大神の取り次ぎの働きというものは、生き生きとしてそこにおる、その御結界の中から、生まれて来る訳でございます。その金光大神のお徳を、その様にして表して行くという場が御結界で有り、現して行くというその人自身の、そうした自分、ここでいえば大坪総一郎と、言った様な者が邪魔になる様な事が無い。即生神金光大神としての働きの出来れる人というか、もう本当に教祖生神金光大神に帰依仕切った人が、御取次さして頂いおかを頂くという事になる訳でこざいましょう。
 けれども。ここん所にです、例えて申しますなら、教祖の神様の御理解に下さっております様に、あの教会にお参りしたからおかげを頂くとか、あの教会ではおかげを受けんとかと、神様に変わりは無いのであるし、金光大神の働きは変わらないのだけれども、そのヒレイが違うのは、守々の力によってヒレイが違うのぞ。と、そういう例えば今私が申します様なその御結界を通してです、そこの中にその働きが始まっておる、金光大神の働きそのものは、天地の親神様祖のものが変わりは無いのだけれども。
 それを表して行く取次者の働き、取次者のその銘々の力によってヒレイが違う。おかげが違う、そこにあの教会にはお参りが多いけれども、あの教会にはお参りが少ないと、あの教会では人がどんどん助かるけれども、あの教会では人が助からないという様な事に成って来る訳でございます。してみると、そこに御結界に奉仕をさして貰い、金光大神のお手かわりとしての働きをいかに十全に頂き、それを十二分に表して行くかという事に本気で取り次ぎ者は取り組まなければならないという事になる。
 教学的な意味で申しますなら、ここに誰が座っておってもいわゆる藁人形が座って居っても頂く方の側の信心が出来ればおかげを受けるtぽい事に成るのでございますけれども、例えて今、申しますなら、そんな訳ですから、ここでは、ね、だれも誰も座っとらんでもです金光大神いましますというような思い、又は取り次ぎ者が、誰か参ってきた時にここに、座ってからその取次者の、その方の難儀なら難儀な問題を聞かして貰う手、神様にそれをお届けしてもろうて。
 おかげを皆さんの方へ渡して上げたらそれで良いのだけれども、そこに守々の力と言った様な風に仰っておられる「その守々の力というのはどう言う様な、そういう様な事からは生まれて来ない。例えば、御結界奉仕をさせて頂くということも見易い様であって実は見易い事ではない。二時間、三時間、四時間、五時間と例えばここに座っておると言う事だけでも見易い様であるけれども見易い事ではない。ね。
 ですから見易い事ではないその難しい事にです、本気でその事を修行としてここに座らして貰え、その事を修行として、だから私はこゝでは例えそれが御道の本であっても御結界で本を読む様な事はあっちゃならん。ね、ここでお道の新聞だからと言うて新聞ども読むような事があっちゃならん。これは御結界に奉仕をさせて頂く私の一つの信条なんだ、ね、絶えず自分の心を神様に打ち向けてね、ここでは本当にどう言う様な難儀な問題を持ち込まれても。
 動揺一つすることがない様な、信心と言った様なものが、ここではさしてもらわねばならん。私も特別の事が無い限り私は朝奉仕させて頂く時、七時間というその時間にはです、私は他の事はここではもう一切、いわゆる新聞を見たり本を読んだりと言う様な事は致しません。他の先生方がここに二時間づつ奉仕をさせて頂くのに、私がそれを申します。たった一時間や二時間ども奉仕させて貰うのにね、ここで新聞どん読まんならん様ことじゃどうするか。
 なる程それは、お道の有り難い事が書いてある本であってもそれを時間潰しに紛らかす様な事ではつまらん。それに一時間か二時間を本気でそこに修行させて頂くそういう気持ちでなからなければいけないと言った様な事を申します、それを私は建て前とさせて頂いておる。言うならばここで、ちょっと立たせて頂きゃあ何でもない様な事で有るけれども立たないと言う事を修行にしておると言うそうゆうですね、修行と言うものが段々身に付いてその一時間なり二時間なりそれが段々本当の物に成って来る。
 七時間なら七時間というものがです、本当にここにおかげ頂かして頂くという事が修行でもない、ただ有難いという様な事になって来なければならない、と言う風に私は思うて居るのでございます。ここではそう言う様な事をですね前提として私が今から申します事をひとつ聞いて貰いたいと思います。教祖の神様が教えて下さるその事を表面だけで受けても、又底に流れている物を深く広く頂くと言う事もどちらも大事である。
例えて言うならば、神参りをするのに雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、こ々の所を抜きにしてどんなにそういう教えの深さが分かっても値打ちは無いのです。もうほんの言葉に表れているその事だけ表面に現れているその事だけ、その事が出来ずしておいてそのみ教えの深さが分かったと言うても値打ちはないです。
今日、私が言う御結界のいわゆる取次の御取り次ぎの働きと言った様な事がです、どう言う教学的に意味が分かってもなる程金光大神の働きはこ々まで、生神金光大神の働きがあっておってもこ々に座らせて頂くその事がです、修行一つ出来ないでその金光大神の御取り次ぎのお徳とか、働きというものを表す事は出来ない。どんなに御取り次ぎと言う事がどういう事か、御取り次ぎという働きがどの様な事か分かっても、こ々に座らせて頂く事が修行だと、きつい事が修行だと。
 それがそして有り難うならして頂く、と言う様なおかげを頂かせて頂いて、始めて御取り次ぎの働きという物を表す事が出来るのであり、守り守りの力と言うものはそういう風ににして鍛われて行くのであると。例えば今申しました様に、雨が降るから風が吹くから神参りするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰っておられる、言葉そのま々受けさせて頂いて此の所がです、分からずして、行じる事が出来ずしておいてその広さ、深さが言葉に無い。
 いわゆる「言外の言」とでも申しましょうか、言葉で表れてないもう一つ向こうの言葉分からせて頂いてもです、もうそれはいかに深さ、広さが分かったからと言うても値打ちはない。私は何時もこの御教えの深さの所を広さの所を色々の角度から解く訳ですね。雨が降るから、風が吹くからと言った様な事でも私共人生航路その中にそれが有るのだ、生活の中に有るのだ。今こそ難儀を感じる時に、今こそ雨が降っているのだろうか、何遍も来る時は雨が降りよる時だと。
 それこそみう吹き倒れせんじゅろうかという位、きつい時もあるけども今こそ人生行路に於いて風をまともに受けている時だと思うてそこを辛抱し抜かせて頂くという様な事がです、あの教えの一つの深さなのだと。神参りをすると言う事だけでは無い、信心生活をさせて頂く中に於いてという風に私はそのもう一つ向こうの方を皆さんに聞いて貰うわけなよね、ですから今日は言葉に表れているそこの所をそのままに私が受けている事を皆さんに御取り次ぎさせて頂いておるのわけなんです。
 皆さん、神参りさせて頂くのに今日は雨が降るんだ、風が吹いているのだ、けれども神参りするにそれがまして信心で有る場合です、自分の心を神様に向けて居る場合、はあ、今日は雨が降るから、しるしいから今日はゆっくり休ませて貰おう、風が吹きよるから今日はしるしかけんで明日の事にさせて貰おう、もう昼頃から、まあ降り止んでからお参りさせて頂こう、それでは身に徳を受ける修行には成ら無いと言う事。
 表面に出て折るお言葉その儘を、その儘のことが自分の信心に依ってマスターすると言うか、そこの所が出来ずしておいて深さが分かったって、もうそれは本な物じゃあ無いです。身に徳を受ける修行じゃと仰る、神参りをする此には理屈も無ければね、何もないです。ただ教祖の神様はそう教えて下さるから、もう私は他の事は何も出来んのだから、頭が悪くて理解力が無いのだから、学力も無ければ知恵も無いのだから。
 それでも教祖の神様は、雨が降っても、風が吹いても神参りするのにそこでへこたれる様な事が有っては、そこで人間心を出す様で有っては、そこで自分でそのことを右、左にする様なことで有っては、身に徳を受ける修行は受けられぬのだと思い込ませて頂ける、そうゆう私は信心がです、先ずなされてからで無くてはどんなに素晴らしい教学が身に付いても、どんなに人生航路の有るところの雨やら風やらをです、この所の信心が出来ずしておいて人生航路の上においての風やら雨を受けられる筈がない。
 雨が降るから風が吹くからえらい大儀と思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。もう朝参りよりか、もうゆっくりね八時頃から朝御飯を食べちから何もかもひと片付けしてからそしてお参りする、成る程お日参りに違いないですけれども、それではもう朝参りの修行には成らんということ、御日参りの修行に成っても朝参りの修行には成らないと言う事。
教祖の神様の百何年と言う間です例えて言うなら三代金光様は十四歳のお歳から八十四歳という高齢になられるまで、それから七十年間と言う間、それこそ降ろうが照ろうがどういう社会的に国家的に大きな問題、難儀な事が移り変わり有っておってこれだけはお変わりに成っていなかった。朝の四時にはきちっとご神前にご奉仕下さった。三時五十分には広前に到着された、四時にはご神前に進まれた、もう降っても照ってもこれらの事だけはしかも晩の夕日迄ご奉仕に成られお引けになるのが五時頃であったですね。
 これは三代金光様だけではない、教祖の神様から二代金光様そして三代様、四代様と言う風にです、それが綿々として伝えられておる。世界の難儀な氏子の為に、世界中の難儀な氏子の為にです、取り分け信者氏子の為にです、御取り次ぎの働きを十全にして下さる為にです、ああいう修行をなさって下さっておる事を思うただけでもお日参りさせて頂かにゃ居られんのであり、朝参りさせて頂かねば居られんのであり、雨が降るから風が吹くからというくらいの事でです。
 そういうお応えする所の信心が崩れる様であっては、相済まんという純粋無垢の心がです、朝参りなり雨が降るから、風が吹くからえらいと思わずに、そこん所を辛抱し抜かせて頂く所の信心。そこに身に徳を受けられる所の信心修行が為されて来るのです。自分勝手なものではないと言う事、今日私が言うおうとしておることが分かって下さるでしょうか、本当にここが分かって頂かなければどういう深さ、どうゆう教学、どういう広さをお道の信心によって体得させて頂いてもです、。
 いわばそういう意味合いにおいて申しますならば大学を出た先生で教学の事ならばほんとに素晴らしい研究をなさって居られる、教学が身に付いておる先生が居られるからと言うて人が助かる訳ではないでしょうが。お取り次ぎ、最近では非常に叫ばれて居ります、教団で。お取り次ぎの働きということについて、お取り次ぎの働きというものはこういうものだと、それがいかに私は理路整然として説明が出来てもその人が助かっていないでしょうが、それを取り次ぐ人が助かっていないでしょうが。
 それを受ける人が助かってないでしょうが、何しにも私共が分からんでもこの事だけはと、朝の五時にここに座らせて頂くのが例えば本当言うたら四時に出らんならんのだけども、私共はそれの信心も出来ませんからせめて五時という時間に起きらして頂いて、この五時という時間に私が一秒間だって切ることは出来んと私は思って居ります。これは修行だと思っております。ここに座ったら最後です、私はここに座ったら最後時間潰しに新聞どん読まんならんような事ではならんとと思って居ります。
時々先生は新聞を読みござるではないですか、時々小便にも立ち上がってあるではないですか、それは成る程有ります、けれどもそれは特別の時だけしか有りません、私は時間潰しで新聞を見ておることは絶対に有りませんです。これも例えば十二時間間での此の七時間という七時間だけはせめてもの私の私の修行と思うてここん所の奉仕の勤めをさせて頂きよりましたら、今頃ではそれが修行と感じない位に成って居る、それが有り難う成らせて頂いて何か一寸でも立つのが馬鹿らしい事に成って来た。
 此で新聞どん見よるのは勿体ない馬鹿らしく成って来た。そういう様な私が段々お陰を頂かして貰う様に成ったら昨夜の御理解ではないですけども、それが一つの枯淡(あっさりしていて、深い味わいが有ること)と言うて、或る意味での信心がそこに成就して、そして昨日あたりの様に朝から晩まで此のお広前がてんやわんやする様に繁盛のお陰を頂くのはそういう様な事が原因である様な意味のことを頂いて居ります。
私がお取り次ぎの働きと言う事を皆さんに十分に説明すると言う事は教学的に説明することは出来ないかも知れません、否出来ません、けれども実際にお取り次ぎの働きと言うものは此に生き生きとして有って居ると言う事、お取り次ぎの働きとはどういう事ぞやというて質問まともから受けてもそれは説明は出来ないにしても実際に人が助かって居るという事、人間関係の上においてそれがスムーズにお陰を頂いているという事、万事のお繰合わせを願えばそのお繰合わせを皆さんが頂いて居るという事。
 それにはです、只今私が申します様に、例えば広さ、深さが分かったと言うてです、お陰を頂くのではない。雨が降るから、風が吹くからえらい大儀と思うてはならんと私は心得ておる、それが身に徳をうける修行であると思うて居る。これは私が今善導時の教会にお参りさして頂いて居る、それこそ日に二回ずつお参りさせて頂くがです、雨が降るから、風が吹くからもうこんな事なんか全然身(振り)は無かったです。これはもう私がですね、どういう、例えば朝のご祈念にお参りします。
 これは私の友人がですね戦死致しましてね、それであちらの世話でもうお通夜やら何やらで椛目の方に帰って来たのが十二時過ぎでした、もう十二時過ぎだからいわば今日という日は終えたのであるけれども、やっぱり夜のご祈念にというか、夜のお参りをしてませんから此を素通りさせて頂いてから善導時にお参りさせて頂きました。そしてかえってきてからようやく家へ帰って、 これは一つの例ですけどもです、ね。
 今日は神様がちゃんと一日を此の仕事で他の事で心配の事が有ったから今日は神様がその事はご承知だから、今日はご無礼しとこうと言った様な事は無かったと言う事です。もうそれこそ、雨が降っても、風が吹いてもどういう事情が有ってもこれだけは欠かした事は無かったと言う事です。 そこに私は教祖の仰る「身に徳を受ける修行じゃ」が私は出来とったなあと自分で思うのです。どんなに広さ深さが分かっても表面に出ておる、言葉に出ておるそこん所だけが。
 その事が出来ずしておいて、どんなに御取り次ぎの働きと言う様な事が理屈で分かっても、その御取り次ぎの働きを頂きこなせなかったら何もならんでしょうが。私共は分かりません、分かりませんけどもお陰だけは受けておる。雨が降るから、風が吹くからえらいと神参りに卑しくもですよ、神参りさせて頂くのにそういうような事ではならんぞ、それを純粋無垢の心で本当にまあ皆さんから言うなら親先生の事を思うたら、金光様の事を思うたら、やっぱりうちにじっとして居られないと言うのがです。
 雨をおかし、風をおかしてもお参りさせて頂かねばならんという純粋無垢のその心がです、身に徳を受ける修行じゃと、その修行が出来ずしておいて自分の日常生活に起きて来る雨やら風やらを受けられん筈が無い。私は此の所を一つ椛目の人達は大事にしなければいけない。もう家で信心修行が出来ておる、家でその言うならどんな雨でちゃあ信心で生き抜いて行きよる、と言う事ではです、有り難い事なんです。
 教えを行じている事ですから、けれども朝参り一つ真面に出来ずして本当の徳が身に付く筈がないと、「この方の行は水や火の業ではない。家業の業ぞ」とおっしゃるから、そういう火や水の行はをせんでも家業の行をすればよいと簡単に、これは表面に出ておる所のその儘を今度は受けてはならないと言うことにもなる。私は先ずいわゆる火や水の行が本当になされるならば、家業の行を家業の行としてやり抜く事は出来ないと私は思う、断食一つ出来ずして、水一ちょ被る事出来んで、様々の修行が有ります。
 そういう行が一つ出来ずして心行が出来る筈がない。そういう修行をさせて頂いて身に徳を受ける修行とおっしゃる。そういう朝参りなら、朝参り的なものがです出来て身に徳を受けてから後、私は心行はさせて頂くものである、又は心行はそういう信心の先に頂かなければ身に付かないものであると言う事を私は思います。先ず何というても昨日、久留米の田中さんがお参りに見えた時私は申しました。
 田中さんて貴女、何でん分からんでよか、とにかくお日参りをしなさい、お日参りしてからお日参りの徳を受けなさい。何故って今頃私は田中さんのお夢にですね、あのお母さんがこの頃ずっと御主人が参って見えませんから参って見えられますが、この頃年でもありますけれども主人がボトボトとしてからですね、何じゃ知らんけどお爺ちゃんになったと言う。私より子供達の方が非常に心配して居ります。ですからどうぞおかげを頂きます様にとお参りされる度に、私も同じ事を感じていたんです。
この頃途端に老け込まれたなあと。本当にボトボトして来た感じがあったですから、私はその事をどうでもよいから、理屈を抜きにしてからお日参りだけはしなさい、必ずお日参りの徳が頂ける、徳を頂ける所から生き生きとしたいわば若返りのお陰が頂けると私は確信して居るから参って直ぐ帰ったっちゃよかけんお日参りの徳を受けなさいと言うて昨日申しました。
 今日また参って見えて有るようにですね、そうゆう純粋な素直さがです、お陰を受けるのです。 訳は分からんでいいのです、神参りをするのに雨が降るから、風が吹くからえらいとそうゆう風に思うちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、そこんとこだけを素直な心で受けたらよいのです。その思いをしてはです、金光様の事を思い百何年間という間綿々としてその行が、いわゆる朝の四時から続け抜かれているという事、その事を思うたらとてもじっとして居られん。
 雨が降るから、風が吹くからと言うて居られんという様な純粋さをもっておかげを頂けば理屈は分からんでよか。この基礎、この土台が出来ずしておいてから、どういう御教えの深さ、広さが分かった所でです、それは本物ではない。どんなに素晴らしい大学出の教学の身に付いた先生がですお取り次ぎしござるけんあの広前はそうにゃ御比例が立つじゃろう、人が助かるじゃろうとゆう訳にはいかんというです、不思議な理由がその辺に有る事をいっちょ皆さんが分からにゃいかん。
 その上に教学が身に付いてくる、そのうえにです、どういう上においても御教えの深さ、広さにおいても、それが体得でき分からせて頂くと言ういに、これ又いよいよ鬼に金棒的なおかげに成って来る事勿論ですよね。ですから私何と言うてもお道の信心ばかりは純粋無垢、教祖の神様はそうおっしやって居られるのですから朝参りがです、吹くけんで、降るけんでと言う様な事で、そういう事が理由に成る様な事では、身に徳を受ける修行にはならない。
これが出来ずしておいて他の事が出来たってそれは教学が身に付いた先生がです、御結界に座る事を一つ修行と思うて辛抱し抜ける様な先生でなからなければ、本当の御取り次ぎの働きとゆう事は表す事は出来ん。あのお広前に参っても、このお広前に参っても、金光大神の働きは同じ事。天地の親神様そのものは同じ事だけれども、助かる助からんというものはそこの守々の力に依って違うのぞとおっしゃる、その力というものがです、私が此で感じている様にです。
 なる程初めの間は泣き事じゅつなかった、けどその辛抱し抜かせて頂きよったら此に座らせて頂く事が、此で新聞どん読む事が勿体ない事に成って来た。此で他の事どんする事はもう本当に馬鹿らしくてようせんごとなって来た。特別な事情が無い限り立てと言われても、いわば神饌室までにでも立とうごとなかごつなった、とゆう様に、その事が段々自分の身に付いて来る様にならせて頂いたら、しわば日参りの徳と言うか、朝参りの徳という様なものが身に付く様に。
 御結界に奉仕させて頂く徳というのが段々私の信心の上に積まれて来よるのであろうと、私は思わせて貰うのでございます。どうぞ一つ何時も頂きます深さ、広さという事からです、今日の御理解をもう一遍頂き直して、なる程深さ広さは分かってきよるけども、本当に目の前のその事が行じられていなかった、「神参りするのに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」 身に徳を受ける修行を純粋無垢な心で受け抜かせて頂かにゃならんと思うですね。
   どうぞ。