親 先 生、
士農工商の先生方に対して
昭和六十年二月二十日
古賀病院にて
『シッカリ信心の帯をせよ』 と教えられているが、帯の仕方でも色々な仕方、締め方がある。男ハ角帯なら角帯の結び方をしなけれバ出来ない。女の人なら、お太鼓という結び方がある。あれハ女の人の後姿をよくするために、お尻が大きいからそれをカバーするためにあのお太鼓というのがある。それをお太鼓の帯の結び方を知らないなら、かばうための帯もあれバ、ある場合にはそれこそ縄帯でする時もあるしね。信心の帯もその時の状態でキザに見える時もある、その時の衣装格好で帯も変っていかねバならないように。信心もそうだよ。同じ一本調子だけでハいけぬ。
例えば大きな鯛があって、生きておるような生き生きとした鯛があっても、それハ役に立たない、それハ食べハされないけれども、もし尻尾がなかったらどうか、もう値打ちがない。これハ例えばそうしたから、どうということもない、おかげが伴う事でもない、けれども鯛としての格好がつかなくてハいけない。
合楽の場合なんかは実際、鯛そのものハ素晴らしいけれども、批判、非難、悪口とかの出所というのは、どこにかあるのだよネ。昔から火のないところに煙は立たぬというように。それハ立派な鯛かもしれない、しっぽ自体ハそれハ助かりにつながるとか、食べられるということもないけれども、そのしっぽならしっぽがついて、比礼(ヒレ)につながっていく成長をしていかねバならない。
たとえば合楽の信心の一例をあげれば、私はネ、たとえば水子地蔵とか霊神とか、泉尾あたりでわざわざ水子の助かりのお祭りがあるということだが、私には馬鹿げたことなんだよネ。
けれどもやはり、なからなければならない。たとえば尻尾みたいなものだよネ。ちょっと考え方を変えなけれバならない。わが子 わが心に通う、和賀子 自分の心を大事にしていかねバならぬかがわかる。水子が可愛そうならそうした徳がいるが、自分の心の中に生き通しに生きておるようなおかげを頂くために、いかに心を大事にしなけれバならないか。その水子が可愛そうと思うなら、自分が和賀心になってゆく信心。
心にいろんな事情で子供をおろして、決して、それがたたってこのような難儀なことが続くのでハなかろうかと……いうような思いに苦しむのだよネ。親ハだからそういう苦しみを取ってやるためにも、やはりわが心の中にその流した子供が生き続けるような手立てというものが合楽でハ説かれなけれバならない。今までハそこのところハ切っとったわけだ。食べハされない、それハおかげにつながるわけでハないけれども、それハ合楽の御比礼につながるわけでハないけれども、そこんところハ昨日詳しく神様から頂いたよ。
泉尾の先生のあり方を批判しておったけれど、金もうけのうまい先生だと思っていたけれども。親の心にすまわせる、親の心に住みたいというその為に自分の心を大切に、流した子供のためにも悪い心やらおこされんといったような、そういう信心がいるんだと思う。
神様から他にいろいろと素晴らしいことを言葉で頂いておったが、
『深さハ浅さ』 意味は大体覚えているけれど、その言葉がネ、その表現の持つ一つのニュアンスというものがピタッと来るような表現があるのだけどネ。
額のお供えがあった。それにエビの絵が載っておった。エビのお知らせハ修行と言う。
『大きな修行ハ大きなおかげの前提だ』 ということを頂いた。
『合楽の自慢話し』 ということを頂いて、両親のことから、お母さんのことから、合楽のわずか十五、六年で今日の合楽教会のたたずまいまでが、神の設計の間に間にあったのだと云ふことをネ。だからどこの庭の道を歩いていても、どの部屋をのぞいて見ても、驚くほど神様の御心というものがそこに置いてある。石のすえ方にまで神様が心を配ってある働き。部屋に掛けてある軸一本、置物ひとつの上にでも、ようもこれだけ揃えたということでなくて、ようもこれだけのものが揃ったというように、自慢話しを人にでもせねバおられないようなおかげと、それが合楽のたたずまいを作って、今までどこにも類のないような本当の神の願いが成就してゆくお教会として、他の手本のようなおかげを下さってあるわけネ。
だからそれを、これハ買うたつじゃないですよ。これハ思いもかけない所から集まって来たのですよ……と言うと、それが自慢話しになって、これハお金でハ買えないのですよといったような、そういう神の願いが、まあ、おしるしにでも開けて来ている。こういう開け方をして、本当の金光大神の道の栄えというものがなからねばならない。
そういうおかげの「拠点」というか、それが合楽に現れたということ。合楽にその御比礼が輝いて来たということハ只事ではない。現在の合楽の御比礼ハちょっとおかしいくらいに小さい。そこで本物でないから、ということになるわけ。宮崎君の手紙に、他の教会でハこのくらい信心でこれほどの御比礼が立っているのだから、合楽教会の場合なんかハ今の何十倍も御比礼が輝いてもよいのでハないか、ということを実感している。それを私ハ聞いて、確かにそうだと思うネ。合楽ほどしに足ろうた、おかげのバランスのとれた教会はないだろうし。
また教えそのものが金光大神の教えの神髄、天地金乃神が真実に金光大神に打明けられたその神髄を合楽ハ説いている。それを現し得ないでおる。だからそれを現して行こうというのは、これハこれからあなたたちの信心によるものだと思うネ。たとえば兄弟四人の者が士農工商の実をそれぞれに身につけて、よく教会発展の御用に使ってもらわねバならないが。
『以前朝鮮に金千代という朝鮮一の精米、酒造業、金千代酒造が当時の朝鮮銀行か ら借り入れておる金というものハ莫大なものであった。朝鮮銀行が支えているのも 金千代なら、金千代が倒れたら朝鮮銀行が倒れると言われるような、かって力をも った、又そういう信用を受けた金千代。金千代が倒産しようものなら、朝鮮銀行の 方が倒してもくれるなというて腰を抱きかかえて、又抱くというようなことであっ たというように』
合楽の場合もやはりそういうおかげを、いうならば信心も出来んのに頂いておるという、いうならば朝鮮銀行と金千代酒造の関係のようにネ。合楽を倒したら神様の方が大損なさる、大きな打撃を受けなさる。だから今日までのおかげを受けて来たが、今からもこのような信心を生き生きと現して行くということハ、その大借金を四人の子供たちがそれぞれに、親の借金ハ子供の借金として払って行こうという、払わねバならんという決心の上に立って、おかげを頂かねばならん。
そういう天地の神様からの、合楽にかけられた願いが大きけれバ大きかったほど、神様が損得抜きで合楽にお金を貸して下さった。そういう大きな借金で合楽の御比礼があるということ、その借金を支払うことの責任を子供たちが感じて、いわゆる鯛のしっぽのところをネ、つけていく精進が今から必要になってくるのではないか。
(親の借金ハ子供の借金)
四人の士農工商と言われる、それぞれの性格をそれぞれにフルに生かさしてもろうて、精進して親の借金払いのために、四人の子供が精進する。たとえば一億円の借金があるならば、四人で二千五百万ずつ払って行こうと言うことになるが、それハそれからの子供一人一人の自覚と精進によるもので、一人で五千万も払える子供もおる。また一千万しか払えない子供もおるかも分からん。けれどもそこに自ずとして、その構えとか姿勢の上に現れて来るものは「謙虚」と神様がおっしゃる。
たとえばネ私たちが親先生、親神様だと、いうならば神様のように言われるから、本当に神様になりきったり、本当に大徳の先生ぶったり、そういったものがいつのまにか、たとえばお話しをする、お話しぶりの中にでも、聞いとっていやな感じになったら、笑い声ひとつにしても何か人を軽蔑したような笑いをしている場合がある。笑い声ひとつにも自分の心の正体を「ああこりゃあ、今自分ハ思い上がっているなあ」と言ったような……。
そういう所から生まれてくる謙虚さが馬鹿丁寧に、これがいかにも実意丁寧でございと言ったような事もあるわけネ。けどもそういうものでハない。人間性の素晴らしい面が謙虚という姿、形で現れてくる。後を受けついで借金払いをして行かねバならない子供たちハいつも心は低姿勢。人間が人間らしく生きていく生き方を、野放図のような生き方と間違えることなく、頂き違えることなく。
『形はけがしても心をけがすな』 どんな場合であっても、人間だからどんな汚いことでも、しなけれバならない時もあるけれど、形(体)ハ汚しても心を汚すな、ということを頂いて、大きな木にしめ縄をこう張ってあるところを頂いてネ。そしてそのしめ縄が少しとれかかっているところなんだ。気をつけていかねバならん。
どんなに考えても、今日の合楽の信心というものを考えてみると、もっともっと人が助からねバならん。もっともっとその輪が広がるということ。宮崎君が言うようにそれを可能にするのハあなた達四人の、後を継がせて頂く者の責任、親の借金ハ子の借金として頂くこと。あ~こんなに親が借金を残してくれたから苦労せんならん……ということでハなくて、その借金払いが出来ること、出来たあかつきには各々の力になっておる。
たとえば、一億円を二千五百万づつ返された時、鯛のシッポまで生き生きとしたサアーと、魚のシッポやらヒレやらというものハ食べもされないのだけれども、やはりそれがなからなけれバ、生き鯛としての値打ちがない。
借金払いをさせて頂こうという、借金払いが出来るためにはいよいよ力を頂かねバならんが、その力が 『謙虚』。
どこから見ても富士山ハ富士山としての姿があるように、どこから見ても思い上がった、またハ軽薄なものに見えないように、どこから見ても富士の山というようなおかげを頂く為に、今後あなた達、士農工商の信心にかかってくる。
だからこれだけの沢山なものが残された、残して頂いたということでなくて、借金を残した。どこまでも天地金乃神様の神願が成就することの為に、どこが大坪のどこに気にいられたのかハ知らないけれども。大坪のためなら、なんぼでも出す、出そうといったような、朝鮮銀行が金千代を盛り立てて行ったように。
だから合楽が倒れると、神様ハ大変な誤算になる。そうならんために『謙虚』という四本立ての柱が、いよいよ素晴らしい力を、ささえる力を、人が助かることの為、より人のお役に立つ為に、おかげを頂く為にも、自ずと謙虚さというものが出て来るような、おかげを頂かねバならない。
部屋一つにしても、その地なりを云うと、ほんとに自慢話しになるようなおかげを受けておる。そのことハ極度に慎まねバならない。
誰が見ても素晴らしい、どこから見ても素晴らしい。宮田先生が合楽を信じて下さり、分かって下さる人として思うておるが、でも今よりハ分かってもらいたい、分からせようなんて…… そのような事ハさらさら要らない。
親の残した借金を、ほんとに借金払いをさせてもらおうという思いを一つにして、今後の精進がいるネ。それを簡単に表現して一口で言うと、
『謙虚』。 各々が謙虚に信心を身につけていかねバならん。
一、古城(天守閣) おまえの祈りハ神が守る。
一、八方破れの修行 四方八方に広がる修行。
一、たとえば手玉にとられておっても有難い、いやとられておることが有難い。
一、教師が育てば 信者が育つ、教師が信者を育てようとしなくても。
一、「借金」がある、というそういう頂き方が、一番金光大神の信心にのっとった 生き方がこれからも間違いなく出来るわけネ。口から出る言葉にも一つ一つに でもネ。
たとえて言うと、このあいだ「各連協」があった時、直会の席で若先生が「毎年、今日という日はこうしてちょっとした会合をして、振り袖姿の女子青年の人達におかんのひとつくらいさしてもらおうか」と冗談のようにして、本当のようにして言った話を聞かせてもらったネ。
合楽は確かに華やかだけども、そうして演出までしてハならないということネ。
たとえば信者の娘さんたちが最高の着物を着けてやって来て、おしゃくの一つぐらいしてもらうと、よっぽどよかごたるけれど。それが各々たちが、そうなれば有難いことだが、けれども教会長がそんなことを思うてでんならん……ということネ。
これと同じようなことが各々ある。私があんた達を見よってから思うこと……、それが謙虚さを欠いている時だと思う。本当の謙虚さというものが、こう内容に出来て、それがにじみ出て来るようなおかげを頂いてもらいたい。
なにか信者を口一つであやつったりネ、こう信者を育てるためのテクニックだというようなことを…… あれは御無礼だと思うネ。そのようなテクニックは要らんよ。もう信者ハ神様が育てて下さる。
謙虚な心で神様と交流する手立てがある。……これが一番のごたるネェ。
他にもいろいろと神様から頂いておったけれど、しかし大体、今、言うたようなことを認識してもらおうと思い、今日それが実現したわけだよネ。
どうぞよろしく。
一、今朝の御祈念、一時間あまりの御祈念に、二回もお手洗いに行かねバならんよ うな苦しい御祈念は、そういう苦しい御祈念は、祈りは止めよと。
今日の合楽の、神様が合楽にかけられるようになったと言うのは……、
流行歌に、「矢切りの渡し」の中に伴奏が流れてきて、
『親の心に背いてまでも 恋に生きたい二人です』 といったようなネ。
私の信心の、ある意味での独壇場的なものは、それこそ親孝行親孝行と、両親にその親にですら背いて、又教えの親であるところの親教会長の言葉にも背いて、親の心に背いてまでも信心に生きたいと願った、そういう心が、神様が私を放しなさらんような原因になっておる。
そこまで神様に命を捧げて行ったというところをネ、神様もまたその気で「よし」と資本金を出して下さったと思う。そういうところから信心がはじまって、おまえが祈らんでも、いわば長い長い御祈念なんかしなくても神が守るということ。
「古城」 天守閣という
神の祈りの圏内にあるんだ……天が守ってあるんだ。
ところが私から御祈念を抜きになったら、どういうことになるか……、まあその日一日は悲しゅうて悲しゅうて、もうこれハ神様から見放されたのではなかろうかと、思うようになって。
『八方破れの修行をさせる』
それがネ、今からのおまえの修行じゃと。
だから心が楽になって、これからこのことが私の実験実証だということ。八方に人の助かるためになって行くか………。八方破れの修行に取り組ませてもらう。