昭和42年06月22日 朝の御理解
信心を頂いておりますと、信心を頂いておる者だけにしか分からない、信心を頂いておるという事に、いよいよ有難い、喜びを感じさして頂けれる、様なおかげが頂けます。成程神様は世界中の氏子におかげがやってあると、こう仰る、世界中の氏子におかげは万遍なく、下さっておるという。おかげと同時に、是は信心をしなければ頂けないおかげ、云うなら、信心をさして頂く者だけの上に頂けるおかげ。
そういうおかげを、まあいうならば神様の、御信用とでも申しましょうか、がそれぞれ信心さして頂く者の上に、広く深く頂けてくるようになるのです。そこで、そこの自覚に自分が立たなければいけません、自分がどの程度の所を現在頂いておるんだと、又頂かせ様として働き掛けておられるんだなあと、云う事を一つ分からなければいけません、自分に頂いておるものも、自分で辞退をしておる様な場合があるのです。
此処ん所を一つ分からにゃいけませんですね、例えて云うなら、銀行との取引の場合もそうで御座いましょう。取引があるから、ああたが言いなり放題に、お金を貸しますと云うのじゃ御座いません、百万円の信用の人もありゃ、一千万円も一億円でも信用のある人があります、ですからその枠というものがあります、三千万なら三千万というまでなら、お宅にゃ貸しても良いという、銀行が信用してくれる訳なんです、ですから三千万円までは、十分銀行の金を利用する事が出来るのです。
それだからと云うてもう百万円、三千百万円と言ったってもう駄目なんです、それが必要であるならば、もう一つ信用受ける為に、四千万なら四千万の枠を、こちらが貰うより外に無いのです、だから云うならば銀行の方からです、も少し枠を大きくして上げようと言う様な働きが始まっておるのを、こちらから辞退する様な信心を、さして頂いておりますと、段々神様がです。
そう言う様な働きを下さるのです。昨日一昨日で御座いましたか、秋永先生が朝の御祈念に参って来た、富永さんと二人で、それで色々御用が御座いましたですから、丁度終日御用頂いて帰りました、その御用のお昼の時で御座いましたでしょうか、六月三十日が大祓式で御座います。今までは教会で御座いませんでしたから、お祭りといや、春、秋のお祭り、それに霊祭ぐらいの事で御座いましたけれども。
いわゆるその様々なお祭りが是からいくらも御座います。折角お祭りを仕えさして頂くなら、そのお祭りのひとつの個性とでも申しましょうか、大祓式なら大祓式らしいお祭りを奉仕したい。昨日親教会から大祓式の案内が来てますけれど。悪疫予防祈願祭と言う様な事が銘打ってのお祭りです、それで私どう言う様なお祭りにしようかと云う事を、先生と話しておりました。そしたら私が神様から頂きます事がですね、紋には必ず丸い輪が御座いますよね、丸い輪の枠の中に梅鉢なら梅鉢がこうその枠がですね。
こんなに大きいんです、その中に菊の紋がこう、入っている所を頂く、いうなら枠というのはまだこんなに沢山頂いておるんです、けども実際はこの位しか無い、いうならば私の信心によって。百名なら百名の人が助かられる、信用を頂いておるのに、実際はまだここでは八十名しか助かっていない、という意味合いなんです、してみると、もう二十人はどこからか、引っ張って来なきゃ馬鹿らしい事になるでしょうが。
私は大体自分で自分の力を知っとりますから、皆さんにお導きをしなさい、ともうこりゃ金光教だけではありません。もう何宗だって強引にでも導く事をですね、奨励する宗教が沢山御座います。いや皆んなそうです、お道の信心だって、矢張りお導きと云う事は、教祖の神様でも、自分がおかげを受けた事を、人に実意丁寧に伝える事が神へのお礼じゃと、而もそれが神になるのぞとまで仰った。かと云うてですね、自分が助かってもおらんのにです、自分が有難いとも思うていないのにです。
人にいきなり導いたってです私ゃ本当の助かりにゃならない、いやどんなに皆んなが導いて連れて来て下さってもです、私自信に力が無かったら助からないと思うからこの事を私はあまり云わんのです、けれども自分がおかげを受けてその有難い勿体ないのが同じ同病相哀れむと申しましょうか、難儀な人があればその難儀な人に対して伝えなければおられないという心情。真心と言う物が篭もっておる物がお導きを頂いてから。
お参りをして来るその証拠には、最近やっぱり四人、五人新しい方がお参りをして来るんです、けれどももう是は的確にと云うてええ事おかげ受けますですね、そりゃまだ力があるからですよ、もうこりゃ本当に不思議な位です。云うなら言いなり放題のおかげです、新しい方達がお参りして来て、おかげ受けておるというのは、ですからなら今度の大祓式なら大祓式にでもいわゆる、いうなら人間心を少し位は使ってでも、良い大祓式にならなきゃならない事をま、お互い考えなければなりません。
そこで私はあの今度の大祓式にはです、もう今何と言っても恐い物は、今までは地震、雷、火事、親父と言う様になっておったそうで御座いますけども、最近ではそん中に、交通事故が入ったというて。誰かが言っておりましたがですね。本当にもう、そん中で一番私は恐いのは、交通事故だと思うですね。現在では、ですからどうでもひとつ、私はあのお道に縁を頂いておる、いや合楽に御縁を頂いておる方達がです。
例えば、それぞれに自動車なら、自動車を持ってもっておられる、その自動車を大祓式に、大祓を受けさして頂いてです、そしてその災難から逃れさして頂く様な、おかげを頂かしてもらったら、こりゃ大変な有難い事になるなあと。それに力があるか無いか知りません。けれどもです、何々神社と言った様な所ですら、例えば交通安全のお札を出されると、そこに沢山の人が集まって来る、それも効くやら効かんやら、おかげになるやら、ならんやら分からんのだけれども。
ただ気分のもの、西鉄さんなんかは、もう大したもんだそうですね、そのお護り札を、交通安全のお札を受けられるだけでも。そういうものがです、現在合楽におかげを受けておる人達が、なるほど、その時秋永先生が言っておりましたがね、五台の車を持っておると、ひと月に一回づつは事故に遭うと、いう数字が出ておるそうですね、そう言う様な例えば、その実情の中にあってです、おかげで無事におかげを被ったと、今まで例えば西鉄さんで云うならです。
一千万なら一千万という損害があっておったのが、合楽の金光様で、お祓いを受ける様にならして頂いたら、それが五百万で済む様になったと言う様な事になっただけでも、大した事だなあと私は思うのです。そうでしょう。ですから実際はです、その気休めではなくて、本当にそういうおかげを頂かなければならん、そのおかげの頂ける力がまだ残っておると云う事、椛目の場合は。
合楽の場合は、神様に頂いておるその枠というのを、百人が助けられる所の枠を頂いておるのに、未だ八十人しか助かってないという感じなんです。そこで皆さんが二十人の所を一生懸命まだお導きをしても。おかげが頂けれると云う事が、その私は分かりました、今度の大祓い式には、私共が大祓い式には、必ず人形型を紙に書きましてね、それに家族中の者の名前と年とを書いて、それをお祓いを受ける訳なんです。
それが皆んなでお参りして、ここでお祓いを受けるという式なんです、ですから私自動車をここにずっと、そのここに縁のある方達の自動車を、ここにみんな駐車場に集めまして、それをお祓いを受ける、そういう式を六月三十日に、さして頂きたいという風に思うので御座います、そこでです、ならお互いの信心の上においてもそうです。昨日私午後からここに久留米の、市長さんが見えると電話が掛っておりましたから、もう四時頃から、それまで私三時半頃からまあ、改めてここに奉仕させて頂いとりました。
そしたらあのはあ今日は先生が座っとんなさるバイと云うてから、午後から私座っとらんもんですから、そげん云うてから入って来よんなさいますもん、誰やろかと思いよったら、久し振りに参って見えたのが、関さんの従兄弟さんで、三池さんという方達が夫婦連れでお参りして見えておられた。あらほんの今先まで関さんおんなさったのに、と私は思うたんですけれど、あのその事を云うたら大変残念がってからですね。
もうあんまり御無礼しとりますからと云うてから、今日は夫婦連れで参って来とられました。それでも色々話されますのに、先生こうしてあの御無礼をしとりますばってんか、おかげだけは本当によう頂きよります。ちょっとした商売さして頂いとりますけれども、今日はいっちょん商売が無いという時には、金光様ば何時でん忘れとる時、はあこりゃおまえ、金光様ば忘れとるけん商いは無かつばい、さあ天津祝詞ば一巻づつあげよう、ち云うごたる風でですね、二巻ぐらいあげよると商売があるそうです。
これはたとえその松村さんがですね、ささやかながらこりゃ信心頂いておるだけだけれども。ささやかだけれども、言わばこの人達が大祓ば二巻あげればですね、こういうおかげも受けられるというひとつの神様の、御信用を受けとるわけですよ。こりゃ云うならば、ささやかな意味の事でご座位ますけれどもですね、まあ御信用とまでは、いかんのですけれどもですね、願えばおかげが受けられるという、そういう程度の物を受けておられると云うことなんです。
今日私が云うておるのは、本当に神様の御信用をです、例えばここで云うならば、総代さんなら総代さんとしての神様の御信用と言う物を、枠を神さまが作って下さろうとしておる訳です。自分の頂いておるものまで私は、外す様な事があっちゃいかんと思うね。昨日は久富繁雄さんが当番で総代さん方の、お広前の何時も代表でここでお届けが御座いますでしょう、その当番だったらしいんですけれども見えておりませんでした。前の晩も見えておりませんでした。
昨日は出て見えておられましたが、何かもうきつそうにして見えておられました。昨日何かに取紛れておりましたから、お話する事もなしに、もう御祈念終ってからでしたが、少し早めに帰りたいと云うて、久富先生云うて見えましたから、まあちょっと待ちなさい、私ちょっと用があるから用を済ましてから、私話したい事があるから、ちょっと待たしときなさい、と云うて十一時頃まで待って貰った。
それから先生達二人に私お話をするんですよ、どうした風ですか、と私云うたら、もう昨日おとといからまあいうなら、しんしゃく、いわゆるしんしゃくを起こしとる訳なんです、まあどういう病気か知らんけれども。お腹が痛むご飯がいけん、下痢をする、そげんあんたきつかごたるなら、今夜泊まって行ったっていいですよ、いいやそげんまでは無か、なら帰ってもいいけどと、云うて私話したんですけれどもね、折角神様からね、おかげを下さっておるのですから、そのおかげを外しちゃ詰らんですよ。
私はこの頃四、五日前から云いよったでしょうが、晩な十一時頃から参って来なさいます。それからもう参って( ? )どうしよってですか、ち云うた所が、もうこの頃忙しゅうしてから、野菜出しが忙しゅう御座いますから、もうやんがて十一時頃までその野菜を揃えたりしなさる訳です。一生懸命働きなさる訳です、働く事も結構、けども繁雄さん、あんたが場合だけは、そうでないよ、えらい強くもない身体で一生懸命働いて、そこにしんしゃく起こしてから。
さあ三日間休んだらどげんなるの、と私が申しました、それよりもね、神様がもっともっと有り難い事でおかげを下さろうとしておる、その事を云うなら、私が申しました、犬が魚をくわえて橋の上を通りかかった、ところがもう一匹の犬が矢張りその魚をくわえておるのが、水に映っておる訳なんですね、だからその犬は向うの犬がもう、一匹魚持っとると思うたもんだから。
向うの魚も取ってやろうと思うてから、ワンと言って吠えた訳なんです、途端に自分の持っておる魚を川の中にとり落してしもうたと、こういうのです、笑い話の様だけれども、お互いがそう云うことになっておるんです。神様に頂いておる、一時間にです、働くと云うことが良いの悪いのじゃないけれども、繁雄さんの場合はです、例えて云うなら五時間なら五時間働けば。
十分におかげの頂けれる健康の上にも、何かにの上にもおかげの受けられる、そして神様も喜んで頂く神様の、直接の御用をここでさして頂けれる、様なおかげを頂きながらです、その有り難い御用の事を、ほうからかしておいてから、自分が五時間なら五時間許されておるとを、七時間も八時間も十時間も働く、様な事をするもんだから、どっこいしんしゃくを起った。
皆様ご承知の様に久富繁雄さんが、ここに毎日出て見えると云う事は、大変な意義のある事なんです。あの人でなからなきゃならん、御用がここにあるのだ、そういう有難い御用は、ほったらかしといてから、野菜作りの方へ、いわゆる頑張りなさるから、ちゃんとそんな事になる。きつか思いして、そしてどげんなりますか、痛い思いをしてお参りも出来ないと云う事になる。
もういい加減で分んなさらなきゃいかんよ、そう言う所は、と云うて私がまあそれで分かったら早う帰んなさい、と云うて昨日は帰られました、なるほど是だけ揃えりゃいくらがたなる、是だけの子とすりゃどれだけと云う事に、その慾な事云いよるから、結局そう云う事になるのですよ。それこそこの辺の言葉で云うなら、ずうの出るごと働いてから、慾と二人で働く、そう云う事ではおかげは受けられんのです。
もういうなら神の御用をすりゃ、氏子の用は神がたしてやると、仰る程のお徳を、受けさして下さろうとする働きなんだ。どうでしょうか、ずうの出るごと働くのと、神様がそれより喜んで下さる、神の用をさして頂けれる、神の用がここにあるのだから。この用をさして頂いて、その用は神様がさして下さる程の、有難いおかげを頂いたほうがいいでしょうが、けれども鼻先の汚い事を考えるもんだから、さあ二時間三時間、何時間か続けてやった所が、大体左程に強くない身体だもんですから。
もうどっこいしんしゃく起こして、さあ三日も寝らなきゃならないと、云う事になっておる訳なんです。是なんかもう正しく神様が下さろうとしておる、所のおかげをです、向うへ押し返す様な物。是だけの枠を作ってやろうと、なさっておられるのに、その枠を自分からいいよと云うておる様なもの、昨日も総代さんが堤〆吉さんが、ここでお届けされるんです、先生又田植えが始まりますから、又しばらく御無礼します、ああそうですか、お取り次さして貰ます。
そりゃ百姓に田植えだ、取り入れだというのですから、こりゃもう絶対商売人で云うなら大売出しの様に忙しい事なんですからね、それをどうこうじゃない、忙しい時にしゃっち参って来いと云うのじゃない。けれどもここにひとつ堤さん、こりゃ私がこりゃ特に不思議に、不思議に感じる事がもうここに四、五回、取りあげで御座いますからと、云うてお参りをやめる、田植えで御座いますからと云うてやめるとです、やめられる、と是はもうどげな馬鹿でも感じなきゃおらんごたる、お気付を頂きよんなさると、云う事なんです、この前のとりあげもそうでした。
堤さんがお参りなりませんとですね、あちらの部落の方達が、お参りが出来ん位に、大変なひとつのキ―を握っておられるというか、そういう御用があるんですよね、堤さんところには、なるほどとりあげにお参りが出来ませんでしたが、御自分も腰を痛めた、奥さんな手を怪我して田植えも出来んごとなった、これが度々の事なんです。してみると例えば田植えの忙しい位の事じゃない、例えよそが十時間働こうが、八時間でもいい、よそよりも一日、二日長う延びてもかまわん、という位にです私は神様がそういうですね、枠を下さろうとしておる働きをです。
だから堤さんこりゃ神様がね、あんた以外な者だったら、こげなお気付は下さらんだろう、けれども、もうあんたの信心はこういう、神様が枠を下さろうとしておる働きを、働きとしてです、感じなきゃいけませんよ、と云うてお話した事でした。もうとりあげの忙しか、田植えの忙しか、家族中の者が合楽、合楽ち参ってからもう陽の明うなってから帰る、まあいうなら、おかしいごたる事でもありましょうけれどもです。
本当云うたらこげな有難い事はないですよね、そこんにきのひとつの達観とでも申しましょうかね、悟るというか、さっちよそが一週間でしまえるとば、五日中にしまえさせにゃならん、と言った様な慾がですね、おかげにならんのです。よそが一週間かかるとこは十日かかったっちゃええ。本当にもっと有難い事に打ち込ませて、頂けれるだけのですね、私はゆとりのある信心をせにゃ詰らん。
信心は忙しかりゃ忙しい程、お参りせにゃならんと、云われておるので御座いますから、だから堤さんの場合は、とりあげ、さあ田植えという時に参って来いとは云わんと私は、けれどもです、そこに何か分からして、貰わなきゃならない、考えなければならない事がありはしないかと云う事、是はもう丁度あの、清さんがまあお知らせも、頂いとりましたから。その事に付いても色々とお話をする事で御座いました。
もう二回、三回じゃないです、さあ、人んこつあ分かるばってん、自分のこたあ分からん、是なんかはですね、もう確かに神様は是だけの枠を下さろうとしておる働きをです、堤さんが向うへ押し返す様な事の、信心に低下していきよんなさるとです。とりあげたんびんに、田植えたんびんに、私は思うですね。神様が下さろうとするその枠をですね、本当に頂かして貰わなければ、神様の御信用を本当に頂かして貰わなければならない、時にですね成程やっぱ慾ですよね。
こん、とりあげの忙しか時に何時間、そりゃもう貴重な時間もう田植えのその、女の人を雇うと日に二千円も出さにゃん。矢張りそりゃ一っ時だってそりゃ大事な時でもある、けれどもね、そこにはそこに信心があって、それを例えばとりあげで御座いますから、田植えで御座いますからと云うてそこん所を疎かにするとです、私は此の様な所をですね、どの様に説明して良いか分からんけれど、結局その今の意味が、もう一つの魚をワンと言って、取り落す様な本当に事だと、こう思うですね。
そして自分の頂こうとしておる、頂いておるものまで落してしまう、そう云う事があっちゃならん為のお気付なのだ、繁雄さんの場合において然りであり、堤さんの場合において然りである、是を信心の無いものに云うと、だからえらい難しかごたるですね。ほう金光様の信心すりゃ田植え時でん参らにゃならん、そりゃもうこげん忙しかつに、やっぱり参らにゃんと云うたら( ? )けれども、一切そういう中にでもお参りの出来るほどの有難さとか、ゆとりを頂かして貰えるという位有難い事は無いのです。
実を云うたら、そこんところが、私は有難うならして頂けれるおかげを受けて行かなきゃいけんですね。もう信心も、もう幼稚園じゃない、小学校じゃない、もういわゆる相当高度な所の信心に、神様が認めて御座るからこそ、そういう、いうならば難しい問題も出しなさり、又分からんとすれば、叩いてでも分からせ様となさる、そういう御神意をひとつ分からして貰うて、おかげを受けさして貰わなきゃならん。
私の場合で申しますとね、私は是だけ百人なら百人の人を助けられるだけの力を、枠を頂いておる、所が実際は未だ八十人しか助かっていない、あと二十人はどこからか無理してからでも連れて来りゃいいという感じがする。今度の大祓式にそこんところを私は十分にです、頂いておるものだけのものを、十分に集めて頂く様なおかげを頂く為には、皆さんがです、少し人間心を使うてでもです、近所に自動車を持って御座る人があるならば、もう自動車のお祓いを受けなさるだけでも、おかげを受けると云う事を。
私は云うて頂いて、話して頂いてお導きをして頂いて、日頃お参りが出来んでも、自動車のお祓いを受けるだけでも、絶えず事故が無いで済む様なおかげが頂かれる事をです、伝えて頂いて、そういう大祓式にならなければならないと、言う風に思うのです。今日は私はそういう枠と言う物をですね、神様が下さろうとする働きを、こちらから辞退する様な事がある、かというと、枠を頂いとってもその枠を十分に、使いこなしていない様な場合もある、そんな事を申しましたですね。
どうぞ