昭和42年5月31日 夜の御理解
熊谷さんから、7月が予定だからという、出産のお願いお届けがあった。そしたら、とたんに御神前に大きなおいさみがございましてですね、神様が引き受けたとおっしゃってくださったような気がいたしますですね。私は、安産間違いなしと思うんです。けれどもそこに、問題はですね、そういう安産のおかげを頂けるおかげというのは、お願いをしたから、というだけではない。やはりそこんところを自分の心で受け止めさせてもらうというところに、信心の有り難さが有り難いということが、あるとこう思うのです。「子を生むに、自分の力で生むと思うな、皆親神の恵むところぞ」と、自分の力で生むと思うなと。みんな、天地の親神様の恵むところぞとおっしゃる。「出産をするに、よかり物によかるより、神に心任せて、子を預かれでしたか。そのようなみ教えがございます。よかり物というのは、出産の時に、何かしがみついたり、よかり物ですね。もたれたり、よかり物によかってするのじゃない、神様に心任せて、神様にすがりぬいて、神様によかりながら、神様によかりごとにしながら、おかげ頂けよとこういうことなんです。特に私は、なるほど、自分で生むのじゃないなあ、生ませて頂くのだなということを思わせて頂きます。
ですから、金光様の御信心は、そこんとろこを一つ分からせてもろうて、一事が万事に有り難いことになってくると思うんですよ。自分の力、自分の力みそういうようなもので、例えばでけたとか、そういうことで成就したというようなものではなくて、神様に心を任せて、おかげ頂きなさらんとですね、次ぎに私が申しますことが分からないと思うんですね。
先日あの、筑水連合会の幹部会の時に、甘木の平田さんが、いろんな信心励例会のいろんな焦点になるようなところを、自分の確信されるところを10箇条書きにして、それをプリントにしてみんなに渡して、諄々と自分の信心、自分の信念を持ってそれを書かれたということでございましたがね。なるほど、明日御信者さん方で、全国でもこの人あり、というような信念の人ですし、同時に、大変なおかげを頂かれておる方でございますから、やはり違うですね。自分の信心から、生み出されてきたもの。いわゆる練り出されてきたんのだというふうに感じました中に、神様にお参りをするということは、神様の御用のお役に立ちたいということだと。お供えさせて頂きたいといったようなことができないならば、自分の力でしようと思うておるからだというようなことが、書いてございました。それを見て、大変すばらしい、あの人でなければ言えない素晴らしい本当のことだと私、思いました。
例えばお参りしようと思うのに、お参りが出来ないということは、自分で参ろうと思うておるからだということ。自分がお供えしたいのに、お供えできんなんていうことはない。ね。神様がさして下さる、神様からさしてもらうのだということになればです。おかげ頂かんはずはない。そこで、出来ないお参りが出来なかったり、十分にお供えが出来ない時はです。結局、自分の我力というものを悟れということなんです。もう一事が万事そうだと思うんですね。
子供が言うことを聞かない。それを自分の力みでする。言うことを聞かせようというところにですね、私は、本当のおかげを受けられんのだと。そこに、だからこそ、神様にすがって、ということは、すがってまかせるということ。とても私の力でできることではございません。と。あなたのおかげを頂かなければ、ということが本気で分かり、気づかせて頂く時に、いわゆる親も助かり、子供も立ち行くところの、おかげが頂くように私は思う。
ま、いらぬお話しですけれども、先日、福岡の富長さんが、いろいろお話しの中に、奥さんが大変な難儀を患っております。それは、それが、今日はあなたどういうふうな考えで、なんというですかね、あの人は、椛目時代から、この合楽に来てからもそうでございますけれども、何か合楽の事といったら、必ず、顔見せる人ですね。もう、それこそ、年に何回かしか参ってきませんけれども、まあ、ある意味あいで、私の信心の理解者でもある。そりりゃあもう、どのようなきつい、せつない場合でもです。まあ、私ぐらい椛目の親先生というて、おすがりするものはほかにあるまいと思うくらいに、そのかわり、お参りせんでもすがる。それがおかげ受けておると。奥さんが、ある難儀な病気と同時に、目が失明しておられる。目が見えられないわけです。ところがですね。秋永先生が、大変懇意な方ですから、この前の何日でしたかね、25日でしたか、ここで会合がありまして、25日は、どうでもこうでも出てこいと、あんたに話もあるけん出てこいということだったけれども、まあ、自分としては、出てくるというような、気持ちが、なかったんですけれども、その前の日ぐらいからですね。少し家内が着物の柄が目にかかるごとなった。それから、白いきれが見えるようになってきた。とにかく失明しておるものは、真っ暗、目の前が真っ暗にしか見えないそうですね。ところが、目の前が白く見えてくる。あら、私は、少し目が見えだしたのじゃろうか。というて、病院で検査をしてもらったところが、あら、これは、少し見えだしよるね。というて、その院長さんか言われて、実はそういう奇跡的な私は、そういうことがあったから、おかげで来たんだと言っておりました。そういう中にです。お話ししておりますことの中に、もう、とにかく、何週間大小便ぜんぜん行かない。行きたくて苦しむんですけれども、ぜんぜん行かない。それは、汚い話ですけれども、もう夫婦というものは、そういう形だけの夫婦じゃないと思うて、私は、もうずっと、手にゴムの手袋をはめて、私は、手でかきださいてやりました。それが、もう出てくるのが、なるほど、これででらんはづだというように、石のごと堅い。カチカチしとる。大便が。というような話をしておりましたら、さあ、皆さん、例えば大小便行くでもです。もう本当に楽に楽に気持ち良く、おかげを頂いておるということなんか、たいしたおかげです。自分で行きたい、死ぬほど苦しんだって、さあ、行きたくても行けのですもん。自分のいわゆる力みだけではどうにもならないことが分かるでしょ。ただ、行ける時は、おかげを受けておる時。だけのこと。無事にでけておるということは、前から後ろから出させて頂いておるということは、出させてもらってろるということは、おかげを受けておることなのです。
ですから、私は、女の方が出産の時でも自分の力で生むと思うなと。自分の力で、私は、出しよると思うちゃならん。神様のおかげを頂かなければ、大小便一つ出来ないんだということ。そこを分からせてもろうて、ありがたい、もったいないおかげを頂いたらです。そういうことに、迷わんで済むと。本当に自分の力で、産むのじゃない。神様の神の恵むところであり、神様のおかげを頂かなくては、一切が、産むことは、出来ないのだということを本気で分からせて頂いてです。安産が頂けると私は、思うですね。自分が出来る。私ががんばっておるというのではなくてです。神様が頑張らせてくださる。自ずと。自ずから力が入ってくる。だから、空力みではいかん。
私、今晩、熊谷さんの出産のお届けをさせて頂いて、と同時に、あの大きなおいさみを頂いた時にです。はあ、神様のおかげで、子供を産ませて頂くんだなと思うたと同時にです。その安産のおかげを頂くこちらの心がです。自分の力で産むのじゃない。神様のおかげで、産ませて頂くのだというときに、安産のおかげを頂くだけではない、そのことが、一事が万事に神様のおかげを頂かなければ、おかげを頂けると言うことが分かる。これは、一事が万事に、応用できることなのである。
出産の時に、よかりものによかるより、なんかになんかかってするよりもです。神様になんかかる。より、神様にお頼みさせて頂いてから、安産のおかげを頂けよとこういう。これは、出産の時だけではない。さまざまな難儀な場合に、あの人に頼る、この人にすがる。そして、神様にすがるといったようなことではなくて、いわゆるよかりものによかって、おかげ頂くのではなくて、神様一心に、お願いし、おすがりし、おまかせしきっての、おかげであるということをです。これは、出産だけではない。一事が万事にそのような気持ちにならせて頂くところに、より神様の十分の働きが頂けることを私は、確信します。どのような場合でもそうです。自分の得不相応なことをさして頂きたい、といても、だめでしょうけれどもです。私共の身分相応なことをお願いさせてもろうて、お役にたちたいという本気で一心にならせてもろうて、そして、自分の力で出来ることじゃないんだ。神様に許されなければ、神様のおかげを頂かなければ、出来ることじゃない。という、思いこみが出来た時に、何の力みもない、スムーズな、おかげが頂ける。なるほど、神様のおかげを頂かなければ、本当にできることではないなという、外に、これは、人間関係、親子の場合でもそうです。自分が育てるのではない。神様におすがりさせて頂いて、一心のその育てるということにおいての御用はさせて頂くけれども、いよいよ助けてくださるのは、かみさまであるということ。これは、形の肉体だけのことではない、その子供の心も同じこと。性根の間違った子供がおる。それを自分の力で、教育だけで、直そうとしたって、こんなおかげが頂けるはずがない。そこんところに、ぬかずかせて頂いて、神様のおかげで、育たせてもらうんだ。という、おかげを頂かせてもらったら、神様のおかげを頂かなければいよいよ、おかげを受けられないという体験も頂けるだろう。そういうような、ところがです。分からせてもらう、思いこませて頂くようになった時に、私ともの本当の信心のいうなら、有り難さ、今朝から頂きます御理解の信心は、親に孝行するも同じことだよと、おっしゃるような神様と私ともの間柄というものがです。本当に親様だなあというような、実感の中に、すべてのことが、おかげが頂けることになってくるとこう思うのですね。どうぞ。