昭和42年5月23日  朝の御理解


 神様が世に出たいと思われる、世に出たいと願われる。神様が助かりたいと願われる。
 そういう神の悲願というか、神の願いというものが、私共氏子の一人一人の上に、様々の形で現われる、それを神愛という、神様が助かんなさる為に、自分が助かりたい為に、人間、氏子一人一人の上に様々な形で表れなさる。やはり利己主義の神様だなと感じるのですけれども感じられない事もないのですが、それをもうひとつ追求してみると、様々な形で氏子一人一人の上に現われなさり、そこに神様が現われようとなさる、神様が助かろうとなさる。氏子にすがって助かろうとなさる。その表れを神愛と、神の愛と、なぜ神の愛というかというと、そうして私共の上に現われなさって、私共の上にどうぞ信心しておかげ受けてくれよとおっしゃる。そのおかげを私共が受ける時に、神様の願いが半ば成就したということになるのである。神様がこういうようなおかげを下さる為に、こういう難儀な問題もあったんだという事を私どもが悟らせて頂いて、そこに神愛無限、無限神愛、私共がよくしていけれるおかげを頂く為に、神愛とはそういうようなもの神様がこの世に出たい、この世に現われたい、そして神様自身が助かりたいと願われる、そういう神様の願いを、神の悲願という。

 神様の切ないまでに、その事を御自分が助かりたいということを願われる、それで様々な形において氏子一人一人の上に現われなさる、信心とはね、そこんところを悟ることなんですよ。神愛を悟るということは、そういう事なんです。それになんぞや、氏子一人一人の信心の実相というか、姿というものを見てみると、そういう実相から離れた、そういう本当の神様の願いから離れた、ただ私が助かりたい、これは私がいつも言う、問題は、私が助かる以外ないというのはね、そういう事と意味が違うのですよ、という事はどういう事かというと、病気をしておる、難儀があること、その難儀から逃れたい、逃れたいという願い、人間、氏子はそこんとこだけを願う、それが信心、それがまた神様だと思っておる、間違った考え方が沢山有るということ。
こんな困った問題が起りましたから、どうぞこれがスム―ズに解決しますように、こんな難儀な病気をしましたから、どうぞ助けて下さいと、その人間の知恵やら力ではどうにも出来ない時に、それをお願いすることが信心だ、それがまた聞いて下さるのが神様だというふうに考えておる。根本的に神様の願いと、私共の願いとの食い違いが出来て来る訳なんです。それでも神様はです、世に現われたいばっかりに、おかげを下さるですよね、願う氏子におかげを授けると仰るように、願う氏子にそういうおかげを表し手見せてくださるのです。
けれどまだ神愛じゃないのです、ね。私共が神愛を悟ると、神愛を知ると、それは神様が助かりたい この世に出たいと願われる切なる願い、その切ない願いが私共一人一人の上にです、信心でもさせて頂かねばならないような 難儀な問題となって現われたり、病気になって姿に表われたりしておるわけなんです。
 それは神様がこの世に現われたいと願われる、神様御自身が助かりたいと願われる現われなんです。
昨日、久保山先生のところの奥さんが参って見えました、昨日お届けをされるのに、先生本当に私は、主人はご承知のように甘党で甘い物が好きだった。ところが私は甘い物をわざわざ買うてまで食べる事はなく、あれば食べるぐらいでてすね、甘い物は余り好んではなかったけれど、ここ四、五日間とにかく、むしょうに甘い物が欲しい、買ってでも食べたいぐらいに変わった事なんです。そしてようやく解らして頂いた事なんです。先生私は、主人がおかげを ああして頂いておりました、この世にありました時には、本当に主人には思いやりの無い、冷たい人だなあというふうにばっかりみておった。
 ところが先生、主人じゃ御座いませんでした、お父さんじゃございませんでした。私自身の方が思いやりが無かった、あれだけ甘い物が好きだった、あれ程甘い物を好まれたのだから本当に、甘い物でも作って差し上げようというようなものでなくて、甘い物があると、またがつがつ食べなさるき、少しなおしておこうという気持ちがあった、冷たいのは私の方であったという事がわかった、これは御霊様が甘い物を求めてある、そういう求めが、そういう願いがです、神様が霊様が欲してあるから、私の身体の上に現われて私が甘い物を食べたくてたまらん、というようになっておるんだと気付かせて頂いて、昨日は、甘い甘いとぜんざいを作らせて頂いてからお供えさせて頂いたんですよと、ところが、それこそ付き物が落ちたように、もう甘い物が欲しい、甘い物が欲しいと思っていた私が、また前の私に変わって甘い物はどうでもいいようになり、人が冷たいなんていうような事ではありません、私自身が冷たかったんであり、本当に霊様が生きておらござるというような事を、様々な場合に解らせて頂くのですから、ほんに、おたち日だけぐらいは甘い物の一つでも作らせて頂いてから お供えしなければならなかったのに、それも出来ていなかったことをお詫びさせてもろうて、そして甘い甘いぜんざいを作り、お供えさせて頂きましたら、私が甘い物を欲しくなくなったと、こういうことです。例えば久保山先生の霊がですね、久保山先生自身もたとえば甘い物が欲しいと 霊様が思われてです、霊様が助かりたいと、奥さんの身体の上に現われなさったと、久保山先生が助かりたいと云うて家内にすがられたんです。そこで家内が主人が甘い物を求めているんだという事を、気付かれてから甘い物をお供えされた。甘いものを作ってお供えされた。ところが自分は甘い物が欲しかったのが甘い物が欲しくなくなった、そこにどういう事になりましょうかね、霊様も助かられたと同時に、奥さんも助かられたという事になつて来たわけなんです、そして根本的な助かり、主人が冷たいのではなかった、私が冷たいのであったという事を解らせたいばっかりの願いがそこにあるでしょうが。それをもう少し大きくお話したのが、今日の御理解なんです。
神様がままになろうと思うて、そこにそういう姿で現われなさるだけの事、神様が。例えば私が糖尿病なら、糖尿病という病気、それで この病気が治りたい、この病気が治りたいというようなですね、私が願いを持つとするならばです、これは神様の願いとは大変な違いとなってくるわけなんです。神様が私の身体の上に糖尿病として現われておられる。それをどういう事かというとです、私の体のうえに神様が現われなさって、糖尿病という形に表れなさってです、神様が助かりたい、神様がままになりたいという、切なる願いがです、神様が助かりたいと言う願いが大坪総一郎にすがっておられる訳なんです。
 ですから私のこの病気を通して神様が、ままに徐々になっていかれているという事ですから、実を云うたら有難いことなんです、神様の願いが徐々に成就しておることなんです、私の糖尿病という事によって。それを具体的に云うと沢山有りますよね、そりゃもう私お話ができないことなんですけれど、皆さん考えて見てください。もし私が糖尿病でなかったらと思って下さい、大きな椛目から合楽えの動きという事を、考えて見て下さい。もし私が糖尿病でなくて、以前足が立ったり、立たなかったりした時代が御座いましたよね、これなんかでも、足がなえてしまう病気にです、これは病名は解りませんでしたけれども、そういう形に神様が現われなさっただけの事なんです。だから皆さんどうでしょうか、私は一つも苦にならなかったでしょうが。足はなえてしまう、みんなの手を取るけれども私は一つも悔やまなかった、ただ神様の思いの深さに、ただ感涙するばかり、神様 この事によってです、私の上にこういう足が立たんという病気に現われなさってです、神様自身がままになりたい、神様自身が助かりたいと 願うておられる姿がそれなんです。そこに私どもが神様の助かりが御成就なっていくと同時に、私共の助かりという事が一緒になされていく、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くという、椛目が立ち行くという事が、この私の足が立たなかったという事が椛目が立ち行く為の、どのくらいな原動力とも働きともなっておったかわからんのです。椛目の先生はもう足が立たんごとなってある、まあ言うならばあれは罰かぶっとると云われるような事も沢山あったろうかと思います。
 けれども そういう事には耳は貸さない、そういう事は問題じゃない。
先日から私が、私共が守銭奴と、金さえ貯めればいい。その為、貧欲に働いた結果、信心も守銭奴的、たとえば御徳を受けて行く事ならばです、人に笑われようが、・・?問題じゃない。そうやってお徳を受けていくためならです、そこを貯める事を楽しみに、神様の願いは氏子信心しておかげを受けてくれよと、氏子信心して徳を受けてくれよと、これなんです、考えればそれは言葉に変えて云うと、神様がこの世に出たい、この世に現われたいという、切なる神の願いなのです。神様の切なる願いというのはです、お広前をここに立派に築きたいとか、お供え物が沢山欲しいとか、そういう事じゃないのです。
昨日、秋永先生達が夕方からお礼に出て参りました。
 本当に二年間御造営の委員長として、私のようなものをお使いまわし頂いて、それこそ、これで済んだとは思わんのだけども、まがりなりにもお使いまわし頂いたという事がです、わざわざ夫婦でお礼に出て来ずにはおられなかったものなんです。それこそ沢山のお供え物を持って、秋永先生夫婦が二年間お使いまわし頂いたという事が有難いのである。私が今度の御造営の事に、一生懸命だったから、これが出来たというところに、この人は神様と一つも感じてないのです。なぜって、たとえば この頃、経理の久保山さんが云うておったように、本当に今度の経理の事を承らして頂いて、その事を通して信心が解らせてもらい、神様の間違いなさをわからせて頂いたというのであって、初めて私はおかげだと思いますね ですから、それぞれ使って頂いたという事が有難いわけでしょうが、御造営になったら、御造営、この事を通して氏子一人一人の上に現われなさったのはです、この事を通して、あれをわかってくれよ、これをわかってくれよという事もあると同時に、神様が助かりたいという、神様の悲願がです、こういう形になって現われるのですよ。
私がこんな御用をした、こんなに骨折ったと、そういう事であったら、本当に神愛を悟るとか、神愛を知るといったような事がです、皆さんが例えば委員長や高橋さんに感謝状を送るといったような話が出たと聞き、馬鹿じゃなかろうかと、私が云いました。そげなこつをいう人から秋永先生が、受ける筈が無いじゃないかと、まさに先生自身もそう思ったであろうと思います。それこそ御用にお使い頂いたという、その事が有難いんだもの。神様の願いというのは、神様がこの世に出たい、こういう姿で神様がこの世に出なさったわけなんですよ。さすがに神様だなあと、たとえばこの御造営を見てから、信心の無い者でも、思わん者なかろうと思うのですよ。毎日新しい参観者があります。その人達が異口同音に云われる事はです、誰がいくらお供えしたか、わからんごと出来たという事が、素晴らしい事だというのです。まさしく神様の力、働きというものがです、このくらいのものじゃないですけれども、たった このくらいの事じゃないけれどもです、こういうふうにして現われたい、神様としては。もう少し追求すると、その事を通して氏子が信心して助かってくれるという事も、私の糖尿病にあらわれたという事も、神様がままになりたいと願われる、その願いのあらわれであるという事なんです。それをお互いに知らずにです、此頃どうしたんだろうか、甘い物が兎に角食べたくて食べたくてたまらん、どうした事だろうかと、その事の難儀に どうぞ甘い物が欲しくないように、お願いして下さいというのじゃなくてです


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