昭和42年01月15日 特別奉修委員会



 我身におかげを受けて、それを人に伝えて行くのが神へのお礼ぞと、それが神になるのぞとまで仰有っておられます。自分の身におかげを受けた事を、それを実意を持って人に伝えて行く、実意丁寧にそれを伝えて行く。その事が神様へのお礼であり、又それが神になるのぞとまで仰有っておられます。ですからここであの実意を持って伝えて行くという所を一つ、よくよく判らにゃいかんと思うですね。
 中々お話をして行くと言う事は、大体は難しい事なんですよね。例えばこの頃の十三日会なら、十三日会で皆さんが発表されますけれど、はぁあの人はまあだ内容には、もっともっと素晴らしいものを持っておられるのに、表現はあの程度にしか表現されない。もっとあれだけおかげ受けておられるのに、それがよう十分に出されていない。惜しいとこう思う様な事が沢山あるです。
 こりゃ言葉というものは実に不自由なもので、それこそそれを十分に表現すると言う事は至難な事です。けどもそれを自分のおかげを受けておると言う事をですね、本当にこうおかげを受けておると言う事を、人に伝えて行くと言う事の為に、矢張りお話の稽古というものがですね、大事と言う事になりますけれども。そのお話がですね、このお喋りになっちゃいけないと思うんですよね。 
 昨夜もう12時頃まででした。私と豊美と、愛子と3人で、色々信心話をもう真剣に、姉妹でその信心の話を。夕べの御理解なんかを頂いて、皆さん帰られた後に、又姉妹で頂いとるんですねぇ。今晩の御理解は本当にもう、ここん所に椛目頂かなければ、愛子ちゃんもうほんなこて、椛目に家族の者として、おかげ頂いておる値打ちはなかばいと言うてから、豊美がその、愛子に話よるとです。
 そしてその話の後に、私あのいいよる事ですもん、もう本当に毎朝あぁして、朝の御祈念の御理解頂くとが楽しみでこたえんて豊美が申します。そのいうならば毎日毎日腹一杯頂きよるとですから、もう大体また先生が同じ様な事をいい御座ると言う様な事で、しまえるのですけれど。もう確かにお父さんの話はお話がですね、何時も同じ様な所謂言葉を使われる。
 けれどもそれは、よく頂くとです、もう朝晩必ず違う事を教えて頂くち言う事です。だからもう同じ様な言葉で使われるから、今日も又あんな話をしよんなさると思うたら、も同じ事になってしまう。例えば昨夜の御理解なんか、椛目の信心の本当の、まっ一部お話しますと一番有り難いとこは、その成り行きを大事にするとか。自然のその働きというものに、もうそれが自然の猛威と言う様な時もあると。雨だから嵐だと言う様な時もあるて。けどもそれに対決して行くと言う事、それを頂き抜いて行く所にです。
 例えば私がここでおかげ受けておる様にですね、もう本当に神ながらと例えばほんなら、久保山の事をいうてもそうなんです。ああいう大変な悲しい難儀な事に合いながらもです。しかし神ながらのお国替えといわなければ居られない程にです。もうこの成り行きが、ものいうて下さりよるです。成り行きがその姿を見せて下さる様ですもん。ですから神ながらといわなければ居られないと言う様なおかげが現れて来るとうのは、私を中心にして成り行きを大事にしよるから、そういうおかげが頂けるのだと。
 ですからここまでの話は何時も私が使う言葉ばっかりでしょうが。けれども昨夜の御理解はですね。そういう自然との例えば、成り行きを尊ばして貰うとか、大事にさして頂くとか場合によっては、それが対決と言った様にです。それと戦う戦い抜いて行かなければならんと言った様な事があるけれどもです。そこん所を戦いに敗れたんでは、その私どもが成る程、神様のこんな働きの中にというて、自然が何時も、ものいい掛けて下さる様なおかげを受けられないと。
 そのおかげを頂くためにです、例えていうならば、甘いもの好きな人が、甘いもの断たして頂く。辛いものを好きな人が、辛いもの断たして頂くと。と言う様な一つの表行と言った様な事もです大事だと言う事。例えば甘い物の好きな人に、わざわざ目の前にです、こう甘い物を見せびらかす様に、さあ、それと対決して行く事ですからね。はぁもうここからもう血水の出るごたる。
 そしてぐっと金光様金光様とこらえて行く修行と言う事は、なってくる時にこの表行というものは、表行よりは心行をしようとか、この方の行は火や水の行じゃない、家業の行と仰有るけれどもです。その表行というものが、こんなにも尊いものだという事が判って来るんですね。辛い物が好きな人がです、本当に酒の匂いをプンプンさせるなら、もそれこそ、もフラフラになってしまうごたるけれども。
 そこをその問題と対決して行くのです。対決してからそれをそれに打ち勝って行く稽古を常に、日頃にさして頂いておるから、自然にそうした対決を求められる時に、その対決に勝って行く事が出来るんだと言う事。だからここん所の修行が出来る様になったらですもう、断ち物もいらなければ、表行もいらんのだけれども、それまでは矢張り表行も大事だという、まいうならば表行に対する新解釈ですね、昨夜のは。ここの所なんです、いっちょは。だからそう言う事がですね。
 普通頂いておる言葉だけを持ってすると、あっ又先生が今日も我身におかげ受けた事を、人に伝えて行くのが神へのお礼ぞと。それが神になるのぞと、これいつも私が言う事ですけん、その御理解の事あるでしょうが。所が私がいおうとしている事は、実をいうたらそれじゃないと言う事。今日は只おかげを頂いて本当その例えば、豊美が昨日申しておりました。もう本当に毎朝晩に頂くその朝の晩に頂く御理解がです。もう楽しうてたまらんとこういうんですね御理解を。
 まっ例えていうならば、お母さんあたりのごと。御理解頂く時眠りふためきしてござっと、もう気持ちが判らんていう訳なんです。ですからそこまでは有り難いんです。所がその頂いておる事がです、朝して頂きよるとがです。もうほんなこて皆んな解るござる事は、判る御座るじゃろうかと、こう思う訳なんですね。そこから段々あの人のめぐりが出て来る訳なんです。
 出しゃばりでお喋りで、そしてもう大人を捕まえてでも、総代さん捕まえてでも、もう一生懸命話さなければ居られんと。おっちゃん又ここが判かっちょるとですかち、フフフという風にはいうまいけれどもです。それによく似た様な事をいうておるのです。それが私がここから聞こえてから、それがもう耳触りになって、耳触りになってたまらんのです。夕べその話が出たから、もうあんたのお喋りにゃ私はもう本当に、もう私は耳触りでたまらん。まぁしてから言いよるとじゃん。
 今日又一生懸命に話しよるとですもんね。そいで自分でいうんですもうそれをね、こらえる事がどうにもこうにも出来んごとに苦しいちいうですよ。これだけ沢山これだけの御理解を頂き御座るとに、ほんに皆が解り御座るとじゃろうかと思ったら。一人一人掴得ておばしゃま、今日の御理解のあんたどこば頂きなさったな、ちてからいうて見なければ居られないちいう。尊いんですけれどもほんなら、今日の御理解はここが頂いどこですばいと、こう言う事になったら、もうすでにお喋りだと言う事です。
 そこで自分がその御理解を頂いて、自分が有り難いと思うて、我身にまずおかげを受けてです。そしてですたい、そしてそれを実意丁寧に人に伝えて行くと言う所に、成長して行かなければ駄目だと言う事。私はねお喋りと人に実意を持って話をして行くと言う事は違うと思う。あの人はいうこつばっかり。自分な行いもでけんのにと云うてから、返って反発して頂き御座るかも知れん、聞きよるかも知れん。ですからそれを本当に自分の身におかげを受けてと言う所をですね。
 私はそこにそのいわゆる御理解を頂いて、それを行じて行く所の味わい、そういう味わいがですね。実意丁寧にこう話されて行くなら、こりゃ素晴らしい通わん筈はない。特に女は口にさがないもの昔からね。だから男だってもうそうなんですけれど。ですけれども、そこん所をですね、その只有り難いと思うた事が、すぐ出される様な事ではなしにです。有り難いという自分のその我身におかげを、それを受けてからです。それが味わいとして出される様なおかげを頂かなければならん。
 昨日も野口つぁんお参りしてから、お届けをしておられるんです。もう野口つぁんなんかはもう本当にやっぱ有り難いものですから、人へそれを伝えなければ居れんのですね。十三日会のあの横につながりという、秋永先生の話を聞きながら。本当に成る程横につながって行かなければいけないとこう思うんですね。だからもうバスの中で一生懸命その事を、横に乗っとる田中さんがおった。
 田中さんに一生懸命話しよる。あの人の横には東さんが居られた。ほでもう東さんに一生懸命その話をして行ったと。ほれでまあ東さんも喜ばれ、お話をした自分自身も喜ばれる、有り難い。けれどもよくよく考えて見ると、果たして我身におかげを受けて、それが実意に伝えられておるものであったかどうかと言う事を検討してみると、ちぃったその事をこういう風に、野口つぁんいうて居られます。
 この頃先生もう自分のいうておる事に、歯痒うして歯痒うしてこたえんちいわれた。もう娘達にでも誰々にでもです、も信心の話を一生懸命しておる訳なんです。けれども自分のいうておる事に、歯痒ゆさを感ずるという時には、こりゃほんなもんじゃない時だと思うんですね。我身におかげを受けてそしてそれが実意丁寧に、人へ伝えられていく時にです。初めてもう語る者も有り難いなら、聞く者も有り難いと言う事になって来るのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。